そのお客様がサロンの扉を開けた瞬間、私は思わず言葉を失ってしまいました。あまりにも痩せていて、あまりにもお顔立ちが変わっていたから。その方はサロンオープン時からのお客様で、色白のショートカットでとてもお洒落な方でした。お勤めの頃はブティックの店長をされていたそうで、なるほどちょっとしたスカーフも素敵に巻いてらして、その巻き方を教えて下さったりしました。通われてすぐだったと思いますが、ご自身が癌であること、抗がん剤の副作用でこれから髪の毛が抜けてしまうことを、さらりとお話されました。私たちのサロンには、そのようなお客様が何名かはいらっしゃるので、冷静に受け止められましたし、自然な対応を心がけていました。それから数年ずっと通院されながら、副作用が出てる時も、出ていない時も、いつも穏やかで変わらず笑顔でお手入れにいらして下さいました。宝塚が大好きな方で、公演だけではなく稽古場まで観に行かれたり、お茶を習いに行かれたり、お出かけも好きな方でした。
「身体を心配して家にこもる人もいるけど、私はやりたいことして行きたいとこに行くのよ」と笑っておられました。ある時全くいつもと変わらない口調で「先週旦那が亡くなったの」とだけお話されました。私は思わず「え、どなたの?」と聞き返してしまいました。スカーフの巻き方を教えて下さった時と、それはほとんど変わらない口調でした。センチメンタルになったり、湿っぽくなったりする事をどんな時もなさらない方でした。おそらくご自身でそう決めておられたのではないかと思います。決して涙や苦痛を見せず、私たちに対してはいつも本当に優しく接して下さいました。大好きな宝塚の話をする時だけは、少女のような笑顔で画像を見せて下さったり、DVDを貸して下さったり、可愛らしい方でもありました。毎月必ず時間通りにきちんとご来店下さり、ご予約の変更も病院の診療予約の変更があった数回だけでした。「主治医には癌である以外は健康って言われたの」と笑顔で話されるようになったある日「お薬やめれそうだから、その分お化粧品買うわ」とうちのサロンで1番高価な美容液を購入して下さいました。私たちもその赤い美容液が、これからのお客様の健やかさと美しさを支えてくれるだろうと思いました。その後もずっと美容液をご購入いただいていたので、抗がん剤治療も終わったようで本当によかった、と安心していました。
ところが、なんだか少しお疲れかな、お顔色が優れないな、と感じ始めて、カルテにそう記入したあたりに「ちょっとお薬再開することになって。また髪の毛が抜けちゃうわ」と言われました。ご来店の時「ご体調はいかがですか」とお聞きする時も、その頃は「あまり良くないの」と口にされていたので、かなり無理をしてお手入れにいらして下さっていたと思います。それから数ヶ月後、ご予約がキャンセルとなり、そのままになりました。ご来店以来初めての事でした。ご入院されたとお聞きしたので心配していたところ、久しぶりにご予約をいただきました。退院されたのだと知り、一安心しました。しかし、そのお客様がサロンの扉を開けた瞬間私は思わず言葉を失ってしまいました。あまりにも痩せていて、あまりにもお顔立ちが変わっていたから。ちょうどその前の年に主人の母を癌で亡くしていたので、お客様のお顔を見てハッとしました。施術はスタッフが担当しました。私が入らせていただいたらよかったと、今さらながら思う事があります。ただその時は涙が出そうでとても施術をすることが出来ないと感じました。お客様は病気について特に何も語られませんでしたがベッドに横になるのも起き上がるのも辛そうで胸が痛みました。最後に靴を履く時に「お座りになられたら」と言うと「ありがとう。でもしゃがんだらもう、立ち上がれないから。」と言われました。お見送りした後姿は痩せておられましたがいつものようにすっと背筋を伸ばそうとされていました。どこまでも凛とされた方でした。
それから間もなくお客様の妹さんから「姉が亡くなりました」とお電話がありました。驚きと共にやはり、と感じました。最後のご来店の時の事を少しお話すると「姉は最後のご挨拶のつもりで伺ったのだと思います」と話されました。月に1回数時間のこと特に深いお話をしたわけでもありません。それでも私たちとの時間を大切にして下さっていたことに感謝が込み上げました。いつも多くは語られないけれど病院の診察の後サロンに来られた時は病院の環境から一変して癒されると言われた事もありました。美しい人美しい物美しい時間を愛された方でした。今でも赤い美容液を見るとそのお客様の事を想います。
阪急電車で宝塚歌劇団の広告を見るとお客様の笑顔を想い出します。エステは単にスキンケアの時間ではありません。たとえ何も語らずともお客様の心の一部に触れる事が出来るかけがえのない時間なのだと思います。時に心を慰め時に心を癒し時に心を奮い立たせ幸福感を与えるものだと思います。そんな時間を少しでもお客様に贈ることができるエステティシャンであるように。いつまでも学び成長し輝きつづけることが私たちの仕事なのだと思います。